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現在の篠島を見ながら、いにしえの篠島を思う。
■弥生時代からの優れた技術
篠島のこの美しい鯨浜から、
つり針・網につけるおもりの石垂が発掘されました.。
篠島の人たちは、
いにしえの頃から魚を獲り生活してきたのです。
伊勢神宮の遷宮式の際に譲り受けた古材が使用されている神明神社からは、昭和60年、深さ約5メートルの貝塚が見つかり、室町・鎌倉・平安・奈良、そして弥生時代・縄文時代の遺跡や人の骨などが発掘されました。
そしてそこからは、つり針やくじら・サメ・タイ・カツオなど、多くの魚の骨が発掘され、外洋の魚を獲っていたことが伺われます。
なかでも、魚にささったあと、索のついた銛の頭と棒が外れ、銛だけが体内に残り魚のなかで90度回転し抜けなくなったところで、索をたぐりよせ魚を獲る、回転式離頭銛という工夫のこらされた銛が発見されたことから、篠島では魚を獲る技術がとても優れていたと思われます。
この回転式離頭銛をたくみに使い、立派な魚を獲っていたのでしょうね。
■篠島と伊勢神宮

神明貝塚が発見された神明神社は、
はるか昔、
倭姫命が伊勢湾の名地を巡られた際にお立ち寄りになり
篠島の美しい景色
島のしきたりや風習
島民の素朴な態度や身なりに感銘を受け
伊勢神宮領と定めたことから建立されました。
伊勢神宮には20年毎に御正殿をはじめ神宮すべての神殿や神宝を新しく作り替える式年遷宮というならわしがあります。
神明神社と八王子社は、その際の古材を譲り受け立替が行われています。
また、倭姫命が篠島の豊かな鯛をご覧になり御贅所と定めて以来、鯛を調製して伊勢神宮に奉納する御幣鯛(おんべだい)という慣わしがあります。御幣鯛とは、6月 9月 12月の各10日に、中手島にある神宮御料干鯛調製所で、竹串で身を開き、樽の中で塩漬けにして固めたのち、
海辺で天日にあて乾燥させた干鯛です。天然素材のみを使い、ひとつひとつ丁寧に作られた御幣鯛は、1年間で大15匹、中144匹、小365匹、合計524匹が、太一御用と書かれた旗を掲げた舟につまれ、神宮へと奉納されるのです。

少し話はそれますが、
神明神社・八王子社では1月3・4日に、
オワタリサマと呼ばれている
渡御という神事が執り行われます。
3日の18時頃から、八王寺社の神霊(オジンジキサマ)が神明神社に移動するのです。オワタリサマが無事終わるまでの間、島中のすべての電気が強制的に消され、島の人々は家の中で静かにじっとしています。また、移動途中の神霊を見た者は、神罰をこうむり不幸が訪れると言い伝えられています。
神明神社で一晩を明かした神霊は、翌日4日、足軽鉄砲手、唐人、振り袖姿の若衆や弁慶などに扮した人々の大名行列で道中をお守りします。
また同時に厄男たちが砂浜に埋めたもちの木(オタナギサマ)を押し合い引き合いして海に流し、潮垢離(こり)を取る厄落とし神事も行われます。
■都人と篠島
奈良県で発見された奈良時代から平安時代にかけての物と思われる木簡に、篠島と近隣の離島日間賀島・佐久島の記載があります。木簡とはいうのは文字を書き記した木の札のことで、お役所同士での連絡文書や記録、税物につけた荷札などとして使用されていました。篠島の名前が記載されている木簡には、塩やサメの干物の量が書かれており、それらのことから奈良時代に篠島の人たちは、神様のお供えものとして、また朝廷に税金として海で獲れたものを加工して納めていたようです。こうした篠島の人たちは都人の間で、漁業を生業とする海部、そう漁師として認識されていたのです。
また、愛知はかつて奈良の都と東国の交通の要路でした。
そのため万葉集には伊勢湾・三河湾沿岸を詠みこんだ歌が多くあります。
そんななかで篠島が詠みこまれている歌を紹介します。

夢のみに継ぎてみえつつ小竹島(しのじま)の
磯越す波のしくしく思ほゆ
という歌があります。
いとしいあなたが夢にだけずっと見え続けて篠島の磯を越す波のようにしきりに思われる
という内容の恋の歌で作者はわかりません。
現在、篠島のなかでも最もきれいな風景が見られる 万葉の丘 歌碑公園の一角に、この歌が刻まれた那智黒石が置かれています。松島を眺め、風にあたりながら、物思いにふけるなんてことはいかがでしょうか。
■篠島海部に義良親王が授けてくれた宝物 帝井(みかどい)
南北朝時代 後醍醐天皇の第9皇子であった義良(のりよし)親王が、伊勢の大湊から陸奥に向かう途中、遠州灘で嵐のため遭難し、篠島の伊勢ヶ浜に漂着しました。
当時の篠島は伊勢に属し、伊勢神宮との関係が深かかったこともあり、親王一行の漂着に島の人たちはとても驚き、荒廃していた篠島城を修繕し親王の行在所としてお迎えしたのです。しかし、篠島の数少ない井戸は、どれも塩分を含むものばかりで、雨水を溜め飲料水としていました。塩からい水や雨水を皇子様に捧げるわけにはいかないということで、清水を求め新たに掘った井戸がこの帝井なのです。
一方、義良親王の遭難を聞いて悲嘆にくれていた後醍醐天皇が、親王の無事を聞いたときに詠んだ歌があります。

神風や御船寄すらん沖つ波
たのみをかけし伊勢の浜辺に
そしてこの歌をきっかけに、
伊勢ヶ浜は神風ヶ浜と呼ばれるようにったのです。
義良親王は篠島に6ヶ月ほど滞在し、いったん伊勢に戻ったあと吉野に帰り、後醍醐天皇と再会します。そして、後醍醐天皇から譲位され即位し、後村上天皇となります。
義良親王12歳のときのことです。
動乱の時代である南北朝時代で、生まれたときから争いや戦に翻弄された後村上天皇は、少年時代に過ごした篠島での暮らしをどのように感じていたのでしょうか。

義良親王をきっかけに発見されたこの井戸は、
近年まで島の大切な飲み水として使用されていました。
現在は、後村上天皇をお祀りしています。
上屋は改築されていますが、
井泉の岩畳はかっての遺構そのままの状態で、
南知多町の指定文化財となっています。
■加藤清正の枕石
江戸時代、徳川家康は名古屋城の築城を、築城の名手加藤清正をはじめ、福島正則・前田利光など、北国・西国の諸大名20名に命じると共に、各大名ごとに持ち場を割り当て競いあわせながら施工を進めたと言われています。なかでも清正は、天守閣の石垣工事工事を担当し、巨石を修羅に乗せて運ぶとき、石の上に乗って気勢を上げたと伝えられています。
清正が築いた名古屋城大天守閣の石垣は、高さ二十メートル。下の方は緩やかに積み上げられ、上にいくと反り返っているという独特な形をしています。また、石垣の表面は四角ですが、奥は細長い直方体となっているため、高く積んでも崩れない工夫が施されています。

そんな加藤清正がどうしても運びだしたかった巨大な石が、
まくら石をかけたままの状態で、
現在も篠島の南風ヶ崎に残っています。
頑丈な巨石を運ぶためにノミを入れ、
枕石をかい、船に積もうとしましたが、
どうしても運び出すことができず残念ながらあきらめたということです。
清正に城を築くように命じた家康公がまだ竹千代と名乗っていた頃、妙見斉の仙麟等膳という和尚が、当時今川家の人質になっていた竹千代を救い出し、篠島の妙見斉にかくまったという説があります。そのことを感謝していた家康公は、浜松城主になったときに等膳和尚を城に招きました。昔を語りあい楽しいひと時をすごしていましたが、等膳和尚はコクリコクリと居眠りを始めてしまいます。
家康公はいきり立つ家来達を尻目に、
「和尚我を見ること 愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、眠る可し」と言い、無礼をとがめるどころか、駿河、遠州、三河、伊豆四ヶ国の 僧録司(そうろくす)という行政取締役の職をあたえ拾万石の待遇を授かったということです。

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